いつの時代でも言われるテーマである、「勉強がつまらない」ということについて、今回は書きたいと思います。

 よく比較対照されるのですが、「勉強はつまらないのに、なぜゲームは面白いのか」という話題があります。実際、ゲーム好きな子供は多いですし、情けないことにテスト前ですらゲームに没頭している子もいます。
これは実際は単純な話でして、「ゲームは面白くなるように綿密に計算されて設計されているが、勉強はそうではないから」ということに尽きます。世の中のゲーム全てが面白いわけではなく、中にはとんでもないゲームもあるわけで、それらは上記の「計算」や「設計」が間違っていたり手抜きだったり的外れだったりしているだけで、基本的にゲームは「プレイヤーをいかに夢中にさせるか」を主眼に置いて制作されているはずです。
面白くなるように作る、というのは、「ちょうどよいハードルが絶妙な配置でたくさん置かれ、その先には必ず魅力的な報酬が待ち構えている」ということだと言えます。
ゲームは巧妙です。少し練習すれば勝てる、少しレベルを上げれば進める、何度も繰り返せば報酬がもらえる、こういうハードルが間断なく現れ、少しの努力で次々に報酬が手に入ります。子供たちはこのサイクルに魅了され、時間を忘れて没頭します。
一方、勉強はケチです。難易度だけは年令とともに上がるようになっていますが、肝心の「努力を超えた先の報酬」というものが明確に打ち出されていません。「この年令ならこの知識は身につけてください」「次はこれを覚えてください」「さらにこれをできるようにしてください」という無数の要求が無味乾燥に並んでいるだけです。
もちろん、人間は「できるようになる」こと自体に喜びを感じることもあります。が、その喜びは、自らが好んで取り組んでいるもの(スポーツや芸術での上達)であったり、明確な目的意識(試験に突破して資格を入手したい)を持つ場合であったりに限られるでしょう。これらは、その先にあるはっきりした報酬(試合に勝つ、コンクールで認められる、資格を入手する)に対する喜びであり、純粋に「できる」ことへの喜びとは言いにくい面もあるでしょう。

つまり、勉強をつまらないと考えてしまうのは、「乗り越えるべきハードルが余りにも多い」上に、「明確な報酬や目的がない」から、ということになります。目的のない努力ほど苦痛なことはありません。明確な目的なく、勉強のための勉強をしている限り、面白くないのは当然のことと言えるでしょう。
ですが、本来は、勉強には報酬や目的があります。勉強をして成績を上げることで、「今後の人生の選択肢が大きく広がる」という、これ以上ないほどの素晴らしい報酬です。もちろん勉強だけで人生が決まるわけではありませんが、高い学力を持つことは得なことはあっても損なことはありません。
現在の世の中は学力が様々な場所で評価の軸とされ、学力が足りないために進みたい道に進めないということが起こりがちです。こういった世界で自分の思うように生きていくためには、学力というのは非常に有用な武器となりえるのです。身分や家柄で人生が決まっていた時代から考えれば、天国のような時代だと言えます。

先程の「つまらない理由」を逆に考えてみれば、「一つ一つのハードルを堅実に越え」て、「将来像という明確な目標を見据える」ことで、勉強に対して「つまらない」と感じることがなくなるはずです。自覚的に勉強に取り組める子は、このことを理解しているはずです。そして、そもそも勉強に対して「つまらないからやらない」とか「やる気がしないのでやらない」などといったことを考えることがありません。
未来の自分を作るのは現在の自分です。どうせ勉強をするなら、「自分自身の未来のためなんだ」という気持ちをほんの少しでも持って取り組んでほしいと思います。

今回は「成績を上げる」という根本的なことを書こうと思います。内容によっては、「何を当たり前な」という部分もあるかもしれません。

成績を上げるために必要な要素は三つしかありません。「授業」「演習」「復習」だけです。「授業」→「演習」→「復習」の三つの過程で、「わかる」→「できる」→「身につける」という三段階が達成できれば、嫌でも成績は上がります。

まず「授業」です。

新しい単元が始まる際、学校でも塾でも、「これはここを覚えましょう」「この問題はこうやって解きましょう」という、知識や解法を伝えます。伝えられたものをきちんと見て、聞いて、時には書いて、まずはその場で頭に入れることが大事です。そもそも見たことも聞いたこともないような問題を解ける人間などいないわけですから、ここでしっかり理解することが大切です。

ですが、実際問題として、「説明が下手くそで意味が分からない」「教科書を読んでいるだけで説明になっていない」などの教える側の問題や、「おしゃべりしていて聞いていなかった」「教科書を忘れて説明がまったく理解できなかった」などの聞く側の問題など、この 時点で問題が生じることがかなりあります。この時点で止まってしまうとこの先へ全く進めませんから、原因が何であれ、理解できなかった部分は後で質問するなりなどして、必ず理解しておかなければいけません。

さらに言えば、ここで問題が生じないためにも、「きちんと聞く」ということが本当に大切なわけです。

次に「演習」です。

授業を聞いて、「わかった」としても、それが「できる」かどうかは別問題です。そこで、「わかる」を「できる」に変えるために、似たような問題(類題)を数多く練習する必要があります。最初はノートや教科書を見ながら、あるいは説明を受けながらたどたどしく解いていても、繰り返すうちに問題の処理がスムーズになっていきます。

一般に、この「演習」は最低限が「宿題」という形で課されます。授業で習った新しいことを、宿題で練習して「できる」ようにすることが目的です。

ですから、宿題をやってこない、あるいはやったようなふりをする、というのはかなり困った事態を引き起こします。一回や二回なら挽回もききますが、日常化してしまうと加速度的に「できない」単元が積み重なり、それらを基 礎として始まる新しい単元の「授業」まで分からなくなってしまいます。

宿題は決して意地悪な気持ちから出しているのではなく、最低限必要な「演習」として定着のために出されているものです。そこを忘れずに、一度の漏れもなく丁寧に取り組むべきです。

最後が「復習」です。

授業で理解し、演習でできるようになった問題も、時間経過で忘れます。一節によれば一日で七割以上忘れるそうで、そのために定期的な「復習」が必要です。特に暗記の傾向が強い科目は、継続して復習を行わないとどうしても忘れてしまうでしょう。

毎日の家庭学習、あるいは塾での演習時間など、要するに継続した学習として、【宿題とは別の、これまで習った単元の復習】の必要があります。

これは端的に言って、「次の定期テストの勉強をする」ということです。学校ワークでも、eトレでも、次の定期テスト範囲に含まれるであろう単元を普段から復習する、ということです。

英単語の暗記でも、数学や理科のワークでも、社会の教科書の音読でも、とにかく「以前習った単元を何度も復習する」ことが大切です。

こうすることで、「習った当時にできた」だけだったものが「いつでもできる」という状態、つまり「身についた」という状態になります。ここまでくればちょっとやそっとでは忘れませんので、時間が経った後でも少し復習すれば容易に思い出すことができます。

今、成績で悩んでいる人は、これら三つのどこかに抜かりがあります。自然と成績が上がるといううまい話は残念ながらありません。自分を見直し、改善すべきは改善しましょう。

誰のために勉強するのか、と聞かれれば、一般的には「自分のため」と答えるはずです。子どもたちも常日頃から、「勉強は自分のためにやるものである」と保護者や教師に言われ続けているはずで、こういった考え方は広く浸透しているはずです。

ですが、今回はこの考え方を少し違った視点から見てみたいと思います。

仕事でも家事でもそうだと思うのですが、一般に人が「嫌だけどがんばろう」「めんどうだけどしっかりやらないと」と考えるのは、その仕事や家事が「自分だけのため」ではなく、「誰か他の人のため」ではないでしょうか。

たとえば、食事を作る際なども、自分だけが食べるのであればいい加減に作ったもので済ますこともあるでしょうが、他の人のために作るとなればそれなりにきちんとしたものを用意するというのはよくあることのはずです。

映画やテレビドラマでも、登場人物が命をなげうってでも成し遂げようとすることというのは、「愛する家族のため」だったり、「大事な恋人のため」だったり、あるいは「この世界の未来のため」だったりなどと、「自分ではない何か」のためであることが多いような気がします

つまり、人間というものは「自分だけのため」には意外と頑張れないのではないでしょうか。勉強することが本当に自分だけのためのものであるなら、むしろ頑張れないことは自然なことなのではないでしょうか。

もし本当に勉強が「自分だけのため」であるなら、極論を言えば、やろうがやるまいが自分の自由のはずです。勉強をしなくても自分以外は誰も困らないなら、勉強をがんばろうという気持ちは生まれにくいでしょう。「自分のためなんだから頑張りなさい」という言葉はそっくりそのまま「自分のためだったらやらなくていいよ」という言葉につながってしまう危険があります。

そこで一つの考えとして、「自分ではない誰かのため」に勉強するという意識を持ってみてはどうでしょうか。誰か、というのは身近な人でも、広く世界中の人でも、どんな人でもいいと思います。

身近な人であるなら、成績を上げることで周囲の人に喜んでもらいたいとか、いつも心配をかけている母親に安心してもらいたいとか、苦労をかけている父親に将来は楽な暮らしをしてもらうためとか、友達でも、好きな人でも、祖父母でも、学校の先生でも、誰かのために勉強をがんばろうという気持ちを持つことで、勉強に取り組む姿勢が変わるかもしれません。

また、優れた弁護士になって無実の罪で苦しんでいる人を助けたいとか、あるいは裁判官になって世の中を良くしたいとか、医者になって病人を救いたい、学校の先生になって子どもたちに楽しい学校生活を与えたい、など、自分の将来像を踏まえた「誰か」のためというのもいいでしょう。

勉強を頑張ることで、自分にとって大切な誰かを幸せにすることができる、そう考えてみてはどうでしょう。

もちろん、純粋に自分のためだと考え、その上で勉強を頑張れるならばそれに越したことはありません。ですが、前でも述べたように、「自分のた め」だけでは頑張れないのも人間だと思います。そういった場合、視点を変え、誰かのために頑張るんだという気持ちを持つことは有用だと思います。

自分が興味や関心を持てない事柄を学び続けるというのが苦痛だというのは当然です。多くの小中学生は、根本的な部分で「勉強は嫌だ」と考えていることでしょう。

そういった中で、「嫌だけど頑張ろう」という気持ちを持つきっかけは人それぞれだとは思います。ある人は自分の将来のため、ある人は純粋に成績を上げる喜びのため、ある人は負けたくないライバルに勝つため。けれどやる気が出ない、なぜ勉強をしなければいけないのか分からない、という人は、「誰かのために勉強をする」ことについて、少しでも構いませんから、ぜひ考えてみてください。