誰のために勉強するのか

誰のために勉強するのか、と聞かれれば、一般的には「自分のため」と答えるはずです。子どもたちも常日頃から、「勉強は自分のためにやるものである」と保護者や教師に言われ続けているはずで、こういった考え方は広く浸透しているはずです。

ですが、今回はこの考え方を少し違った視点から見てみたいと思います。

仕事でも家事でもそうだと思うのですが、一般に人が「嫌だけどがんばろう」「めんどうだけどしっかりやらないと」と考えるのは、その仕事や家事が「自分だけのため」ではなく、「誰か他の人のため」ではないでしょうか。

たとえば、食事を作る際なども、自分だけが食べるのであればいい加減に作ったもので済ますこともあるでしょうが、他の人のために作るとなればそれなりにきちんとしたものを用意するというのはよくあることのはずです。

映画やテレビドラマでも、登場人物が命をなげうってでも成し遂げようとすることというのは、「愛する家族のため」だったり、「大事な恋人のため」だったり、あるいは「この世界の未来のため」だったりなどと、「自分ではない何か」のためであることが多いような気がします

つまり、人間というものは「自分だけのため」には意外と頑張れないのではないでしょうか。勉強することが本当に自分だけのためのものであるなら、むしろ頑張れないことは自然なことなのではないでしょうか。

もし本当に勉強が「自分だけのため」であるなら、極論を言えば、やろうがやるまいが自分の自由のはずです。勉強をしなくても自分以外は誰も困らないなら、勉強をがんばろうという気持ちは生まれにくいでしょう。「自分のためなんだから頑張りなさい」という言葉はそっくりそのまま「自分のためだったらやらなくていいよ」という言葉につながってしまう危険があります。

そこで一つの考えとして、「自分ではない誰かのため」に勉強するという意識を持ってみてはどうでしょうか。誰か、というのは身近な人でも、広く世界中の人でも、どんな人でもいいと思います。

身近な人であるなら、成績を上げることで周囲の人に喜んでもらいたいとか、いつも心配をかけている母親に安心してもらいたいとか、苦労をかけている父親に将来は楽な暮らしをしてもらうためとか、友達でも、好きな人でも、祖父母でも、学校の先生でも、誰かのために勉強をがんばろうという気持ちを持つことで、勉強に取り組む姿勢が変わるかもしれません。

また、優れた弁護士になって無実の罪で苦しんでいる人を助けたいとか、あるいは裁判官になって世の中を良くしたいとか、医者になって病人を救いたい、学校の先生になって子どもたちに楽しい学校生活を与えたい、など、自分の将来像を踏まえた「誰か」のためというのもいいでしょう。

勉強を頑張ることで、自分にとって大切な誰かを幸せにすることができる、そう考えてみてはどうでしょう。

もちろん、純粋に自分のためだと考え、その上で勉強を頑張れるならばそれに越したことはありません。ですが、前でも述べたように、「自分のた め」だけでは頑張れないのも人間だと思います。そういった場合、視点を変え、誰かのために頑張るんだという気持ちを持つことは有用だと思います。

自分が興味や関心を持てない事柄を学び続けるというのが苦痛だというのは当然です。多くの小中学生は、根本的な部分で「勉強は嫌だ」と考えていることでしょう。

そういった中で、「嫌だけど頑張ろう」という気持ちを持つきっかけは人それぞれだとは思います。ある人は自分の将来のため、ある人は純粋に成績を上げる喜びのため、ある人は負けたくないライバルに勝つため。けれどやる気が出ない、なぜ勉強をしなければいけないのか分からない、という人は、「誰かのために勉強をする」ことについて、少しでも構いませんから、ぜひ考えてみてください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です