「分からない」という誘惑

宿題を確認するときなど、空欄が多い生徒に対して、「なんでこんなに空欄だらけなの?」と尋ねると、判で押したように「分からなかった」と答えます。また、授業中に「ではこの問題を解いてみましょう」と演習の指示を出すと、一分もたたないうちに「分かんねー」とうんざりした声を挙げる生徒もいます。

このように、生徒たちは何かと言うと「分からない」を連発するのですが、これらの「分からない」には往々にして「めんどうくさい」が隠れていることがあります。今回はこのあたりのことを書いてみたいと思います。

例えば問題を解くとき、見るからに手間の掛かりそうな国語の記述問題や数学の文章題などを前にすると、考えるよりも先に「めんどうだ」という気持ちが出てきてしまう子がいます。

そういった場合、「めんどくさいのでやりたくありません」と言えば当然怒られたり責められたりすることは子供でも分かりますので、その代わりに「分かりません」と言うことがあります。言わば、「分かりません」という言葉を免罪符代わりに使っているわけです。分からないのだから仕方がない、解かないのではなく解けないのだ、という感 じでしょうか。

そして生徒が「分からない」と言えば、大人はそれを認めざるを得ません。分かるか分からないか、その真実は本人にしか判断できないのです。

こういった姿勢で、難しそうな問題や手間の掛かりそうな問題を避け続けていくと、当然成績は下がっていきます。最初は面倒で避けていただけなのに、徐々に「本当に分からない問題」が増えていき、最終的には取り返しのつかない事態になってしまいます。

話は少し変わりますが、以前働いていた塾で、以下のような言葉がよく使われていました。

「すぐ聞く子はすぐ忘れる」 「分からないことはすぐに聞け」

前者は、「分からないことをすぐ人に質問するような子は聞いたことをちっとも身につけない」という意味で、後者は「分からない問題を延々と考えていても時間の無駄なので質問しなさい」という意味です。

これは矛盾しているように見えるのですが、実際には一つの言葉にまとめることができます。それは、「とことんまで考えて、それでも分からなければ速やかに質問しなさい」です。

何でもかんでも「分かりません」でパスするような姿勢では学力向上は望めないので、まずは自分で真剣に問題に取り組みましょう、その上で本当に分からないときは、遠慮なく質問して解法を身につけましょう、そういう意味のことを表しているわけです。

現実問題として、自分の学力レベルを超えた「分からない」問題は確かに存在するわけです。そういう「本当に分からない」問題は、すぐに解法を確認し、自力でそれを再現してみて、身につける必要があります。あるいは、覚えていない英単語や読めない漢字、定義が曖昧なままの理科や社会の語句なども、考えても分かるはずがないのですから、すぐに正答にあたり、それを早急に覚える必要がありますし、そういったことを繰り返してこそ学力が向上していくわけです。

しかし、今目の前にある問題が本当に分からない問題なのかは、自分が真剣に取り組まないと判定できません。ちらっと見て、「めんどくさそうだから分からないことにしておこう」と、問題から逃げていてはいけません。

学力向上とは「できないことをできるようにする」ことです。そのためには、「今の自分には分からない問題」に対して真剣に向き合い、それを克服していく努力が必要です。

眼の前の困難から逃げるだけの安易な「分からない」は、そういった向上の機会を実に上手に奪っていきます。何しろ、一言「分からない」と言えば誰も文句が言えないのですから。

真剣に取り組み、それでもなお自力では解法にたどり着けない、そういう本気の「分からない」ときにだけ、この言葉は使ってほしいと思います。

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