ここは山梨県西桂町の「ひろせ塾」のブログです。

塾からのお知らせ、私自身の勉強に対する考え方や勉強法、あるいは日々の身の回りについてなど、諸処書き綴っていこうと考えています。中にはお見苦しい投稿もあるかと思いますが、どうかご容赦くださるようお願いいたします。

なお、塾については左メニューの「ひろせ塾について」を御覧ください。

いつの時代でも言われるテーマである、「勉強がつまらない」ということについて、今回は書きたいと思います。

 よく比較対照されるのですが、「勉強はつまらないのに、なぜゲームは面白いのか」という話題があります。実際、ゲーム好きな子供は多いですし、情けないことにテスト前ですらゲームに没頭している子もいます。
これは実際は単純な話でして、「ゲームは面白くなるように綿密に計算されて設計されているが、勉強はそうではないから」ということに尽きます。世の中のゲーム全てが面白いわけではなく、中にはとんでもないゲームもあるわけで、それらは上記の「計算」や「設計」が間違っていたり手抜きだったり的外れだったりしているだけで、基本的にゲームは「プレイヤーをいかに夢中にさせるか」を主眼に置いて制作されているはずです。
面白くなるように作る、というのは、「ちょうどよいハードルが絶妙な配置でたくさん置かれ、その先には必ず魅力的な報酬が待ち構えている」ということだと言えます。
ゲームは巧妙です。少し練習すれば勝てる、少しレベルを上げれば進める、何度も繰り返せば報酬がもらえる、こういうハードルが間断なく現れ、少しの努力で次々に報酬が手に入ります。子供たちはこのサイクルに魅了され、時間を忘れて没頭します。
一方、勉強はケチです。難易度だけは年令とともに上がるようになっていますが、肝心の「努力を超えた先の報酬」というものが明確に打ち出されていません。「この年令ならこの知識は身につけてください」「次はこれを覚えてください」「さらにこれをできるようにしてください」という無数の要求が無味乾燥に並んでいるだけです。
もちろん、人間は「できるようになる」こと自体に喜びを感じることもあります。が、その喜びは、自らが好んで取り組んでいるもの(スポーツや芸術での上達)であったり、明確な目的意識(試験に突破して資格を入手したい)を持つ場合であったりに限られるでしょう。これらは、その先にあるはっきりした報酬(試合に勝つ、コンクールで認められる、資格を入手する)に対する喜びであり、純粋に「できる」ことへの喜びとは言いにくい面もあるでしょう。

つまり、勉強をつまらないと考えてしまうのは、「乗り越えるべきハードルが余りにも多い」上に、「明確な報酬や目的がない」から、ということになります。目的のない努力ほど苦痛なことはありません。明確な目的なく、勉強のための勉強をしている限り、面白くないのは当然のことと言えるでしょう。
ですが、本来は、勉強には報酬や目的があります。勉強をして成績を上げることで、「今後の人生の選択肢が大きく広がる」という、これ以上ないほどの素晴らしい報酬です。もちろん勉強だけで人生が決まるわけではありませんが、高い学力を持つことは得なことはあっても損なことはありません。
現在の世の中は学力が様々な場所で評価の軸とされ、学力が足りないために進みたい道に進めないということが起こりがちです。こういった世界で自分の思うように生きていくためには、学力というのは非常に有用な武器となりえるのです。身分や家柄で人生が決まっていた時代から考えれば、天国のような時代だと言えます。

先程の「つまらない理由」を逆に考えてみれば、「一つ一つのハードルを堅実に越え」て、「将来像という明確な目標を見据える」ことで、勉強に対して「つまらない」と感じることがなくなるはずです。自覚的に勉強に取り組める子は、このことを理解しているはずです。そして、そもそも勉強に対して「つまらないからやらない」とか「やる気がしないのでやらない」などといったことを考えることがありません。
未来の自分を作るのは現在の自分です。どうせ勉強をするなら、「自分自身の未来のためなんだ」という気持ちをほんの少しでも持って取り組んでほしいと思います。

さて、今回はタイトルの通り、「定期テストに教科書やワークを持ち込む方法」をお伝えします。少し想像してみてほしいのですが、どの教科のテストであっても、手元に教科書やワーク、授業で配布されたプリントや自分のノートなどがある状態なら、テストも完璧に近い形で解くことができるのではないでしょうか。分からない問題は教科書やノートで調べたり、ワークの似たような問題を探せば解き方が分かるはずです。語句の説明なども、教科書の該当ページを開けばそこに説明が完全な形で載っていますから、わけもなく簡単に答えられるでしょう

とは言え、実際にテストの場に教科書本体などを持ち込めるかと言えば、それは不可能でしょう。教室には監督として学校の先生がいるわけですし、皆がテスト問題を解いている中で教科 書だのワークだのをパラパラとめくっては答えを探す、というのは目立つこと間違いなしです。このような、言ってしまえばカンニングというものは誰もが一度はやってみたいと想像することですが、実用に耐えるレベルでのカンニングというのは現実的には至難の業で、限りなく不可能に近い神業と言えるでしょう。

ところが、実は教科書をテストに持ち込める方法が存在します。もちろん誰にもバレませんし、仮にバレても怒られるどころかむしろほめられる方法です。ここまで読んで見当もついた人もいると思いますが、その方法とはズバリ、「教科書を覚えて、頭の中に入れて持ち込む」ことです。頭の中にしまった教科書やワークは、誰にバレることもなく自由に参照できます。ページをめくる必要もありませんから音も立ちません。「教科書などを持ち込む」というズルをしているのに、正々堂々とテストに臨むことができるわけです。

こう書くと、「それは持ち込んでるんじゃなくて暗記してるだけでは?」と異を唱える人もいるかもしれません。確かに言い方を変えればそう言えると思います。実際、覚えるのが大変だから持ち込みたいと考える人が多いわけですから。しかし、ここで分かって欲しいことは、「教科書などを持ち込めば点数が取れる」ことが確実であること、であるならば、「教科書などをより多く暗記しておけば点数が取れる」こともまた確実であること、この二点なのです。テスト勉強をするとなると、カラフルなまとめノートを作り始めたり、ワークの問題を大急ぎで答えを見ながら埋めたり、心を殺してマシンのように漢字練習をしたり、効果が期待できないような作業に時間を費やす人が多いのですが、テスト勉強の基本であり本質は、「暗記」なのだということを分かって欲しいのです。

「テスト範囲の教科書やワーク、ノートやプリントを覚える」という確実に点数を取れる手段が目の前にあるのですから、それを最優先してテスト勉強に取り組むことが大切です。

では、覚えるためにはどうすればいいのか、といえば、いつも同じことを書きますが、反復です。

教科書を何度も読む。ワークを繰り返し解く。英語の教科書は本文と日本語訳を覚える。実技科目は補助教材を繰り返す。もちろん時間はかかりますから、その時間を確保するために早い時期から取り組む必要があります。

そうした反復を通じて、頭の中に「教科書」「ワーク」を定着させ、テストに向かったときにそれを参照して解答すればいいわけです。

「勉強のやり方が分からない」という声をたまに聞きますが、太古の昔から勉強のやり方に大きな変化はありません。必要なことを覚え、その場に応じて思い出せるようにする、これが勉強の基本であり、何よりも優先して取り組むべきことなのです。

今回は「成績を上げる」という根本的なことを書こうと思います。内容によっては、「何を当たり前な」という部分もあるかもしれません。

成績を上げるために必要な要素は三つしかありません。「授業」「演習」「復習」だけです。「授業」→「演習」→「復習」の三つの過程で、「わかる」→「できる」→「身につける」という三段階が達成できれば、嫌でも成績は上がります。

まず「授業」です。

新しい単元が始まる際、学校でも塾でも、「これはここを覚えましょう」「この問題はこうやって解きましょう」という、知識や解法を伝えます。伝えられたものをきちんと見て、聞いて、時には書いて、まずはその場で頭に入れることが大事です。そもそも見たことも聞いたこともないような問題を解ける人間などいないわけですから、ここでしっかり理解することが大切です。

ですが、実際問題として、「説明が下手くそで意味が分からない」「教科書を読んでいるだけで説明になっていない」などの教える側の問題や、「おしゃべりしていて聞いていなかった」「教科書を忘れて説明がまったく理解できなかった」などの聞く側の問題など、この 時点で問題が生じることがかなりあります。この時点で止まってしまうとこの先へ全く進めませんから、原因が何であれ、理解できなかった部分は後で質問するなりなどして、必ず理解しておかなければいけません。

さらに言えば、ここで問題が生じないためにも、「きちんと聞く」ということが本当に大切なわけです。

次に「演習」です。

授業を聞いて、「わかった」としても、それが「できる」かどうかは別問題です。そこで、「わかる」を「できる」に変えるために、似たような問題(類題)を数多く練習する必要があります。最初はノートや教科書を見ながら、あるいは説明を受けながらたどたどしく解いていても、繰り返すうちに問題の処理がスムーズになっていきます。

一般に、この「演習」は最低限が「宿題」という形で課されます。授業で習った新しいことを、宿題で練習して「できる」ようにすることが目的です。

ですから、宿題をやってこない、あるいはやったようなふりをする、というのはかなり困った事態を引き起こします。一回や二回なら挽回もききますが、日常化してしまうと加速度的に「できない」単元が積み重なり、それらを基 礎として始まる新しい単元の「授業」まで分からなくなってしまいます。

宿題は決して意地悪な気持ちから出しているのではなく、最低限必要な「演習」として定着のために出されているものです。そこを忘れずに、一度の漏れもなく丁寧に取り組むべきです。

最後が「復習」です。

授業で理解し、演習でできるようになった問題も、時間経過で忘れます。一節によれば一日で七割以上忘れるそうで、そのために定期的な「復習」が必要です。特に暗記の傾向が強い科目は、継続して復習を行わないとどうしても忘れてしまうでしょう。

毎日の家庭学習、あるいは塾での演習時間など、要するに継続した学習として、【宿題とは別の、これまで習った単元の復習】の必要があります。

これは端的に言って、「次の定期テストの勉強をする」ということです。学校ワークでも、eトレでも、次の定期テスト範囲に含まれるであろう単元を普段から復習する、ということです。

英単語の暗記でも、数学や理科のワークでも、社会の教科書の音読でも、とにかく「以前習った単元を何度も復習する」ことが大切です。

こうすることで、「習った当時にできた」だけだったものが「いつでもできる」という状態、つまり「身についた」という状態になります。ここまでくればちょっとやそっとでは忘れませんので、時間が経った後でも少し復習すれば容易に思い出すことができます。

今、成績で悩んでいる人は、これら三つのどこかに抜かりがあります。自然と成績が上がるといううまい話は残念ながらありません。自分を見直し、改善すべきは改善しましょう。

誰のために勉強するのか、と聞かれれば、一般的には「自分のため」と答えるはずです。子どもたちも常日頃から、「勉強は自分のためにやるものである」と保護者や教師に言われ続けているはずで、こういった考え方は広く浸透しているはずです。

ですが、今回はこの考え方を少し違った視点から見てみたいと思います。

仕事でも家事でもそうだと思うのですが、一般に人が「嫌だけどがんばろう」「めんどうだけどしっかりやらないと」と考えるのは、その仕事や家事が「自分だけのため」ではなく、「誰か他の人のため」ではないでしょうか。

たとえば、食事を作る際なども、自分だけが食べるのであればいい加減に作ったもので済ますこともあるでしょうが、他の人のために作るとなればそれなりにきちんとしたものを用意するというのはよくあることのはずです。

映画やテレビドラマでも、登場人物が命をなげうってでも成し遂げようとすることというのは、「愛する家族のため」だったり、「大事な恋人のため」だったり、あるいは「この世界の未来のため」だったりなどと、「自分ではない何か」のためであることが多いような気がします

つまり、人間というものは「自分だけのため」には意外と頑張れないのではないでしょうか。勉強することが本当に自分だけのためのものであるなら、むしろ頑張れないことは自然なことなのではないでしょうか。

もし本当に勉強が「自分だけのため」であるなら、極論を言えば、やろうがやるまいが自分の自由のはずです。勉強をしなくても自分以外は誰も困らないなら、勉強をがんばろうという気持ちは生まれにくいでしょう。「自分のためなんだから頑張りなさい」という言葉はそっくりそのまま「自分のためだったらやらなくていいよ」という言葉につながってしまう危険があります。

そこで一つの考えとして、「自分ではない誰かのため」に勉強するという意識を持ってみてはどうでしょうか。誰か、というのは身近な人でも、広く世界中の人でも、どんな人でもいいと思います。

身近な人であるなら、成績を上げることで周囲の人に喜んでもらいたいとか、いつも心配をかけている母親に安心してもらいたいとか、苦労をかけている父親に将来は楽な暮らしをしてもらうためとか、友達でも、好きな人でも、祖父母でも、学校の先生でも、誰かのために勉強をがんばろうという気持ちを持つことで、勉強に取り組む姿勢が変わるかもしれません。

また、優れた弁護士になって無実の罪で苦しんでいる人を助けたいとか、あるいは裁判官になって世の中を良くしたいとか、医者になって病人を救いたい、学校の先生になって子どもたちに楽しい学校生活を与えたい、など、自分の将来像を踏まえた「誰か」のためというのもいいでしょう。

勉強を頑張ることで、自分にとって大切な誰かを幸せにすることができる、そう考えてみてはどうでしょう。

もちろん、純粋に自分のためだと考え、その上で勉強を頑張れるならばそれに越したことはありません。ですが、前でも述べたように、「自分のた め」だけでは頑張れないのも人間だと思います。そういった場合、視点を変え、誰かのために頑張るんだという気持ちを持つことは有用だと思います。

自分が興味や関心を持てない事柄を学び続けるというのが苦痛だというのは当然です。多くの小中学生は、根本的な部分で「勉強は嫌だ」と考えていることでしょう。

そういった中で、「嫌だけど頑張ろう」という気持ちを持つきっかけは人それぞれだとは思います。ある人は自分の将来のため、ある人は純粋に成績を上げる喜びのため、ある人は負けたくないライバルに勝つため。けれどやる気が出ない、なぜ勉強をしなければいけないのか分からない、という人は、「誰かのために勉強をする」ことについて、少しでも構いませんから、ぜひ考えてみてください。

宿題を確認するときなど、空欄が多い生徒に対して、「なんでこんなに空欄だらけなの?」と尋ねると、判で押したように「分からなかった」と答えます。また、授業中に「ではこの問題を解いてみましょう」と演習の指示を出すと、一分もたたないうちに「分かんねー」とうんざりした声を挙げる生徒もいます。

このように、生徒たちは何かと言うと「分からない」を連発するのですが、これらの「分からない」には往々にして「めんどうくさい」が隠れていることがあります。今回はこのあたりのことを書いてみたいと思います。

例えば問題を解くとき、見るからに手間の掛かりそうな国語の記述問題や数学の文章題などを前にすると、考えるよりも先に「めんどうだ」という気持ちが出てきてしまう子がいます。

そういった場合、「めんどくさいのでやりたくありません」と言えば当然怒られたり責められたりすることは子供でも分かりますので、その代わりに「分かりません」と言うことがあります。言わば、「分かりません」という言葉を免罪符代わりに使っているわけです。分からないのだから仕方がない、解かないのではなく解けないのだ、という感 じでしょうか。

そして生徒が「分からない」と言えば、大人はそれを認めざるを得ません。分かるか分からないか、その真実は本人にしか判断できないのです。

こういった姿勢で、難しそうな問題や手間の掛かりそうな問題を避け続けていくと、当然成績は下がっていきます。最初は面倒で避けていただけなのに、徐々に「本当に分からない問題」が増えていき、最終的には取り返しのつかない事態になってしまいます。

話は少し変わりますが、以前働いていた塾で、以下のような言葉がよく使われていました。

「すぐ聞く子はすぐ忘れる」 「分からないことはすぐに聞け」

前者は、「分からないことをすぐ人に質問するような子は聞いたことをちっとも身につけない」という意味で、後者は「分からない問題を延々と考えていても時間の無駄なので質問しなさい」という意味です。

これは矛盾しているように見えるのですが、実際には一つの言葉にまとめることができます。それは、「とことんまで考えて、それでも分からなければ速やかに質問しなさい」です。

何でもかんでも「分かりません」でパスするような姿勢では学力向上は望めないので、まずは自分で真剣に問題に取り組みましょう、その上で本当に分からないときは、遠慮なく質問して解法を身につけましょう、そういう意味のことを表しているわけです。

現実問題として、自分の学力レベルを超えた「分からない」問題は確かに存在するわけです。そういう「本当に分からない」問題は、すぐに解法を確認し、自力でそれを再現してみて、身につける必要があります。あるいは、覚えていない英単語や読めない漢字、定義が曖昧なままの理科や社会の語句なども、考えても分かるはずがないのですから、すぐに正答にあたり、それを早急に覚える必要がありますし、そういったことを繰り返してこそ学力が向上していくわけです。

しかし、今目の前にある問題が本当に分からない問題なのかは、自分が真剣に取り組まないと判定できません。ちらっと見て、「めんどくさそうだから分からないことにしておこう」と、問題から逃げていてはいけません。

学力向上とは「できないことをできるようにする」ことです。そのためには、「今の自分には分からない問題」に対して真剣に向き合い、それを克服していく努力が必要です。

眼の前の困難から逃げるだけの安易な「分からない」は、そういった向上の機会を実に上手に奪っていきます。何しろ、一言「分からない」と言えば誰も文句が言えないのですから。

真剣に取り組み、それでもなお自力では解法にたどり着けない、そういう本気の「分からない」ときにだけ、この言葉は使ってほしいと思います。

初回投稿ということで、私の考える「勉強の基本」についてお伝えします。

一言で言って、勉強とは「反復」のことです。それも、二度や三度の繰り返しではなく、徹底的に反復し、もう二度と忘れないというレベルまで覚えこむことです。言ってしまえば単純なことですが、この本質を実践できている子は実際にはほとんどいません。

定期テスト前などに、生徒たちは「ワークが終わらない」「やっと英語のワークが終わった」などと口々に言いあいますが、その度にこちらは、「君たちの言う『終わった』というのは、単に『埋めた』だけだ。本当に『終わった』というのは、ワークに載っている全ての問題が完全に頭に入っていて、テストに似たような問題が出たときに「思い出して」正解できることだ。簡単に『終わった』なんて言ってはいけないし、本当の『終わり』を目指して、ワークは何度もやらないといけない」というようなことを伝えます。

ですが、現実には、生徒たちは目の前のワークを埋めることや、それをとにかく期限内に提出することに気が向い てしまい、おざなりな勉強に終始してしまうようです。

学習の一連の流れというのは、

  1. 塾の授業での新出単元予習
  2. 塾の宿題での復習
  3. 学校の授業で再び説明を受ける
  4. 学校の宿題での復習
  5. 家庭学習での復習
  6. テスト前の復習

 といったものになりますから、都合五回の復習の機会があるのですが、多くの生徒は②~⑤に全力を注ぐことをしません。ろくに問題も読まずに「分かりませんでした」と言って宿題は投げ出す、学校の授業中は他のことに気を散らせて先生の説明は聞いていない、家庭学習はとにかく早く終わらせてテレビマンガゲームスマホとやりたいことにばかり時間を使う。これでは反復などは夢のまた夢で、せっかく習ったこともすぐに頭から抜け落ちてしまいます。テスト前になって慌てて復習しても、さっぱり身につかないのは当然のことになります。

反対に、①~⑥全てに高い集中力を持って臨んでいる子は、高い学力を保つことができます。塾に通っていなくても成績がいい子がいますが、彼らは③~⑥までの流れ全てに全力で取り組 んでいるはずです。

 学校での勉強というのは、「習ったことを繰り返し練習して身に付ける」だけのことです。新しく習うことは塾でちゃんと説明します。何を覚えればいいかも全て伝えます。特に初期段階でしっかりした説明を受けることはスタートとして非常に有利ですし、それが塾の役割の一つでもあります。後は、自分がきちんと覚え込むこと、それが学力を高める唯一の方法です。

当然時間はかかります。しかしそれは当たり前のことで、学力を高める、成績を上げるというのは時間がかかることです。短時間でパッと奇跡のように成績が上がるコツ、などというものはありませんし、今までにそんな実例は見たこともありません。

これまで教えてきた子供達の中でも、特に成績が上がった子達は、教科書や参考書は何回にも渡る書き込みでボロボロでしたし、家庭学習に使うノートを週に一冊以上のペースで消化する子もいました。授業前に2時間も早く来て自習する子もいれば、土日は必ず自習室に何時間もこもっている子もいました。

習ったことをひたすら繰り返し身に付ける、簡単に「終わった」「もうやることがない」などと言わず、しっかり覚えるまで何度もやり直す、こういう地道な努力の先にしか成績上昇という結果は待っていません。

塾でも、宿題や小テストを通じて、子供達には反復練習ができるように指導しています。ご家庭でも、子供達の「もう終わった」「やることない」「全部やった」という言葉に惑わされず、充分な学習時間の確保をお願いしたいと思っております。